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× マネジメント

マネジメントの力で良くしてみよう

論理的に考える

04_段取りをする

「論理的に考える」社会人になるとよく求められます。でも、どうして論理的に考えることが必要なのでしょうか。今日は、論理的に考えるとは、どういうことなのか、どのように役に立つのか、ということをまとめます。

【脱線】必要な問い

いきなり脱線しますが、何よりも「やり方」を知りたい、という衝動が先にくることがあります。例えば、「どうすれば論理的に考えられるのか」というような場合です。上司から、「論理的に考えろ」などと言われたその日に、本屋に寄って、論理的思考に関するノウハウ本を買ったりする。こういう傾向には、「待った」をかけたいですね。「やり方」の前に、まず、「論理的に考えるとはどういうことなのか」という問いが先だと思います。これから何を学ぼうとしているのかわからないのに、「やり方」を知ろうとするのは、上達しないと思います。少なくとも、「使いこなす」までにはならない。本質を知ることができないと思うからです。「何を習得しようとしているのか」、「なぜそうするのか」、今日、書こうと思ったのは、こういう問いを、今までしてこなかったからのような気がします。

「論理的に考える」とは、どういうことか

この問いについて、はっきり答えられますか? 難しいですね。せっかくですから、「論理的に考える」とは何かについて、じっくり考えながら書いてみます。
「論理的に考える」というと、ちょっと知的な感じがします。話の筋道がしっかり示されていて、すっと入ってくる。事実をベースに根拠や理由があって、そこから導かれる結論に納得できるものがある。すべてが関連していて、わかりやすい、という感じでしょうか。個人的な考え方ですが、「一度、自分で考えた人は、調べたり、聞いたする権利が与えれる」と思っていますので、ググってみます。

「論理的思考」とは、人間の思考様式の一つ。「行動的直観的思考」に対置される


物事を筋道立てて、論理的に考える能力のこと


一貫して筋が通っている考え方、あるいは説明の仕方のこと

 

「論理的に考える」の反対は、直観ですね。「思いつき」とか「感情的」とか「独断」ということも、「論理的に考える」ことの反対の概念でしょう。反対の概念を知ると、その言葉の意味がわかりやすくなります。つまり、「論理的に考える」とは、自分勝手な考えや一時的な感情で頭に浮かんだことではなく、すべてのものにあてはまる真理にもとづいて考える、価値観や文化の違いを超えて、広く認められたフォーマットで考える、ということなのでしょう。社会に所属する者の作法といえるかもしれません。

 

なぜ論理的に考える必要があるのか?

「論理的に考える」という不自然な行為は、人間が生み出したものです。そうする必要があったからでしょう。思いつきや感覚で話すことができない人はいないと思います。人間にとって、これが本能的で自然な行為だからです。日常生活であれば、前提条件を明らかにし、事実を根拠に、論理的に考えて結論を導き出す、なんてしなくても、何とかなります。しかし、人は、問題を解決してきました。つまり、想いを描き、なんとかそれを実現させる、ということを繰り返し、高度なことができるようになってきました。このとき、思いつき、感覚、直観や独断、これらでは問題を解決できなかったのだと思います。事実に基いているわけでもなく、根拠や理由がはっきりしているわけでもないから、うまくいかないことが多かったのでしょう。「論理的に考える」のは、問題解決に不可欠なのです。

マネジメントと論理的な思考

マネジメントとは成果を上げることです。言い換えれば、あるべき姿と現状のギャップを埋める、そして、あるべき姿を引き上げ、つくりだしたギャップをさらに埋める、これを繰り返すわけです。ギャップという「足りないもの」がわかったとしても、それを埋めるのに、感覚や思いつきで導き出された行動では、どうもうまくいきません。ひとりよがりであったり、デタラメであったりするので、成果を上げる可能性が低くく、継続性は期待できないのです。
また、何も疑問を持たずに、これまでやってきたことを続けても、うまく行きません。行動が変わらなければ、結果も変わらないからです。「論理的に考える」ことで、意味のない現状維持に疑問を抱き、「これまでの自分」にとらわれずに考えることができるようになります。「論理的に考える」ことは、マネジメントに不可欠なのです。
ただし、直観や思いつきがダメだという訳ではありません。経験からくる直観は、ときに最も効果的な解決策を導き出してくれることもあります。大切なのは、価値観や経験という個人的な感覚から導き出される思考と、真理に基づく「論理的な思考」の両方を使い分けることだと思います。

自由にさせない

05_行動する

人の行動に影響を与えるには、「操る」のと「奮起させる」の2つがある、ということについて、前回書きました。

 

kakemana.hatenablog.com

この記事のなかでは、手っ取り早いが故に「操る」アプローチばかりだ、ということを書きました。しかし、「操る」のなかでも、とても大切なのに、実行されていないものがあります。それが、今日の「自由にさせない」です。

 

最近は、新入社員のうちからモノを言う人が増えているようです。「僕の自由にやらせてください」とか「私のやり方で」ということを、平気で上司に言ってくるそうです。上司である管理職も、「そうか。じゃ、やってみろ」と簡単に引き下がってしまいます。解釈によっては、「積極的」と捉えることもできますので、悪いことではないでしょう。しかし、この自由を許容しすぎてはいけません。


「人を育てる」という記事のなかで、成果を上げるプロセスが人を育てるのだと書きました。

kakemana.hatenablog.com

その前提には、何としても成果を上げようと行動することが不可欠です。「何としても」です。もし、好きなことや得意なことをだけを行い、慣れ親しんだやり方で取り組んだとしても、成果は上がらないでしょう。それで実現できるような成果であれば、もともと十分な難易度ではなかったのです。成り行きで、できてしまうレベルだったのです。人は、苦手なことや好きじゃないことは避けて通ろうとします。完全に逃げなくても、十分な時間や量を割かないようする傾向があります。

 

例えば、営業マンであれば、苦手なお客さんのところに訪問する回数が極端に減るなんていうのは日常茶飯事で、まったく訪問しない不届者も珍しくありません。受験勉強でも、合格するためには、穴を作ってはいけないので、どうしても5教科やらなければならないのに、苦手な数学はどうしても後回しになる。部下や子供に自由にやらせておいて、事実でもって確認していると、こういった傾向はすぐに見て取れます。

 

人を育てるためには、自由にやらせてはいけないのです。成果を上げようとする行動が、人を育てます。そして、成果を上げるためには、必要なことは何でもやらなければならない。必要なことのなかには、必ず好きじゃないことや苦手なことが存在しています。好きじゃないことや苦手なことを避けていると、これが弱さとなって現れます。成果を上げたくとも、弱さが壁になって停滞してしまうのです。ですから、本人がその行動を好きか嫌いか、苦手かどうかにかかわらず、上司や親は、必要なことをやらせなければならないのです。

 

これに対して、必ず、「部下や子供がかわいそう」と言う人が現れます。そう感じる気持ちは理解できなくはありません。私にも覚えがあります。息子が小学3年生のとき、「近くの公園でバッティング練習がしたい」と息子が言うので、投げてあげることにしました。すると、息子の打ち方を見て驚きました。遠くに飛ばすことを考えるあまり、極端に投手側の肩を開いて、前に突っ込みながら打っていました。これは、野球では、やってはいけない典型的な崩れ方なのです。そこで、その日は、残りの400球をすべてショート・ゴロを打つように左打ちの息子に指示しました。もちろん矯正するためにです。息子には理由を告げていなかったので、泣きながら打っていました。息子のためにやらせているという信念はありましたが、そのときはさすがに息子の心情が気になったものです。しかし、これは、かわいそうではないのです。

 

自由にさせないことは、見方を変えると、いつも上司や親が見ている、関心を寄せている、ということです。最初は、嫌々やっていても、関心をもって関わっていると、それが、必ず苦痛でなくなります。そして、良い結果が出たりすると、嬉しそうに報告してきます。
かつてのプロジェクトでも、「あそこには案件なんて、ありませんよ。私はこの地盤をよく知っているんですから」と言って、新規営業を避けていたベテラン営業マンが、その新規先から契約を取った日に、上司と日次ミーティングで嬉しそうに聞いてもいない話を延々としていた、なんてことがありました。
ちなみに、我が不肖の息子も、翌日には「パパがあんなにやらせた理由がわかったよ」と笑顔で言い、今では、バッティングが崩れたと判断すると、逆方向に打つ矯正法を、自ら繰り返し練習しています。

人を育てることに本気で取組むなら、自由にさせてはなりません。苦手なこと、好きでないことにも、果敢に、粘り強く取組むことが不可欠です。「自主性」を重んじる傾向が強くありますが、「自由にさせる」ことにならないように注意しなければなりません。

行動変化の2つのアプローチ

05_行動する

前回は、「人を育てる」について書きました。能力を向上させるために何かをやるのではなく、成果を上げるプロセスこそが人を育てる、ということでした。マネジメントを徹底することで、「人を育てる」ことができる、ということですね。

kakemana.hatenablog.com

今回は行動変化のアプローチについて書きます。「人を育てる」ことは、行動変化を促すことと同じです。人の行動に影響を与えるには、2つのアプローチがあります。「操る」と「奮起させる」です。「操る」ばかりを多用しないで、「奮起させる」ことに、もっと取り組もうではありませんか、というお話です。

 

行動変化を促す2つのアプローチ

人に行動変化を促すには、「操る」と「奮起させる」という2つのアプローチがあります。日常では無意識にやっているので、改めて確認しておきましょう。
このアプローチは本を読んでいると、度々目にします。よく知られているでしょう。心理学でいう「外発的動機づけ」と「内発的動機づけ」というやつに近いのではないかと思います。この2つのアプローチはどちらが優れていて、どちらが劣っている、ということではありません。目的に応じて使い分ける必要があります。
部下を指導したり、子供を躾けたりする場面では、いちいちこんなこと考えていられません。各々、どんなアプローチなのか、とても大切なので、整理します。

 

「操る」

「人を操る」というと、言葉のイメージが、あまりよくありませんね。しかし、本質を表している言葉なので、「操る」を使っています。特に、地位や立場が上の人が、下の人の行動に影響を及ぼす場合、そのほとんどが「操る」です。では、「操る」とは、どういうことでしょうか。

「操る」とは、特定の行動をとるように、外側から圧力を加えるということです。具体的にどういう行動がこれに当たるかというと、例えば、「ご褒美をあげる」、「罰を加える」、「叱る」、「命令する」、そして「ルールを守らせる」などです。これは、必ずしも悪いことではありません。例えば、車が来るのかどうか確認もしないで、子供が道路に飛び出した場合、普通、親は子供を激しく叱ると思います。命の危険があるほど危ないからです。もう二度とそんなことはさせてはならない。そのためには、「叱る」ことで、次から必ず「安全を確認する」という行動を取らさなければなりません。このように、然るべき行動をとらせるために、直接的に働きかけるのが、「操る」です。

 

「奮起させる」

もうひとつのアプローチが「奮起させる」です。これは、相手が「よし!やろう!」と自ら決意することで、行動の変化を促すものです。具体的には、行動自体を「楽しいと感じる」「意義を感じる」、「誇りに思う」、「承認される」、そして「仲間意識を感じる」などです。例えば、所属しているサッカーチームの練習から帰ってくると、お母さんが「お帰り! 偉かったね。」と言いながら、満面の笑みで迎えてくれる。すると、子供は自然と好きなサッカーの練習に打ち込むようになる。こういったことが「奮起

させる」というものです。

 

「操る」ばかりの世の中

ところが日常行われているのは「操る」ばかりです。その理由は「操る」がもつ特性にあります。「操る」のは、とにかく手っ取り早いのです。相手の心の状態を考えなくても、地位や立場が上の人が、その位置づけの力をもって、圧力を加えれば、下の人は、すぐに示された行動をとらなければなりません。少なくとも表面的にはです。

指示した仕事をきちんとこなさなかったり、期待通りの行動を取らなかった部下に、「あれをやれ」、「これをやれ」と細かく注意するというは、当たり前のレベルですね。ある工場では、作業ミスにより良品として出荷できなかくなった商品を、その作業員に買い取らせ、かつ、ノーミス手当10,000円を支給しない、という方法で、然るべき行動を取らせていました。この工場の場合、仕組みが脆弱なところがあるように思えましたが、作業員を操作することで損害を減らそうとしていました。親子の関係でも同じです。「勉強しろ」や「宿題はやったのか」というのは日常ですし、ゲームばかりやっている子供には「ゲームを隠す」という罰を与えたり、「運動会がんばったらご褒美を買ってあげる」なんていうのも、「操る」アプローチです。
「操る」ことばかり行われるのは、早く結果が欲しいからだと思います。どうしたら、部下や子供を「奮起させる」ことができるのか、なかなか具体的に思い浮かびませんが、「操る」のは簡単です。「やれ!」という圧力をかければいいのですから。それに、満足できない目の前の光景に対して、「操る」ろうとする行動自体が、ある種、上司や親に一時的な気晴らしになるところもあるのでしょう。

 

もっと「奮起させよう」

確かに、その瞬間、「操る」というのは、手っ取り早いのですが、長い目でみると面倒が多いのです。「操る」方にも、「操られる」方にも、です。実は、「操る」のには、とても負担がかかります。なぜなら、都度、「操らなくてはならない」からです。「操る」場合、相手の心の状態は関係ありません。「四の五の言わずにやれ」ですから、「なぜこの行動をとるべきなのか」という理解ができていないので、行動を自ら省みて自分を情けなく思う、というような感情面の動きは、あまり期待できません。すると、同じようなダメな行動を繰り返し起こします。それを見て、上司や親がまた「操る」、この繰り返しです。
操られる方にも、残念なことがあります。外からの力により「操られた」場合、要求されたこと以上の行動は取りません。意味を理解していないから、求められたことに反応するだけなのです。そうすると、自ずと、行動の質も量も、最低限の水準でしか行われません。「操る」ことで、実現した行動は、動機も内容も、そして量も、著しく限定的なのです。
では、どうすれば「奮起させられる」のか。これは難しいですね。しかし、「マネジメントとは何か」という問いと、ものすごく親和性が高い論点だと思います。成果を上げ続けるには、「奮起させる」ことが不可欠ですので。今回はこのくらいで終わります。
私も含めてですが、相手とコミュニケーションするとき、「操る」ことばかりになっていないか、「操る」のが最適なのかを、ちょっと息をついて考えようではありませんか。