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マネジメントの力で良くしてみよう

行動変化の2つのアプローチ

前回は、「人を育てる」について書きました。能力を向上させるために何かをやるのではなく、成果を上げるプロセスこそが人を育てる、ということでした。マネジメントを徹底することで、「人を育てる」ことができる、ということですね。

kakemana.hatenablog.com

今回は行動変化のアプローチについて書きます。「人を育てる」ことは、行動変化を促すことと同じです。人の行動に影響を与えるには、2つのアプローチがあります。「操る」と「奮起させる」です。「操る」ばかりを多用しないで、「奮起させる」ことに、もっと取り組もうではありませんか、というお話です。

 

行動変化を促す2つのアプローチ

人に行動変化を促すには、「操る」と「奮起させる」という2つのアプローチがあります。日常では無意識にやっているので、改めて確認しておきましょう。
このアプローチは本を読んでいると、度々目にします。よく知られているでしょう。心理学でいう「外発的動機づけ」と「内発的動機づけ」というやつに近いのではないかと思います。この2つのアプローチはどちらが優れていて、どちらが劣っている、ということではありません。目的に応じて使い分ける必要があります。
部下を指導したり、子供を躾けたりする場面では、いちいちこんなこと考えていられません。各々、どんなアプローチなのか、とても大切なので、整理します。

 

「操る」

「人を操る」というと、言葉のイメージが、あまりよくありませんね。しかし、本質を表している言葉なので、「操る」を使っています。特に、地位や立場が上の人が、下の人の行動に影響を及ぼす場合、そのほとんどが「操る」です。では、「操る」とは、どういうことでしょうか。

「操る」とは、特定の行動をとるように、外側から圧力を加えるということです。具体的にどういう行動がこれに当たるかというと、例えば、「ご褒美をあげる」、「罰を加える」、「叱る」、「命令する」、そして「ルールを守らせる」などです。これは、必ずしも悪いことではありません。例えば、車が来るのかどうか確認もしないで、子供が道路に飛び出した場合、普通、親は子供を激しく叱ると思います。命の危険があるほど危ないからです。もう二度とそんなことはさせてはならない。そのためには、「叱る」ことで、次から必ず「安全を確認する」という行動を取らさなければなりません。このように、然るべき行動をとらせるために、直接的に働きかけるのが、「操る」です。

 

「奮起させる」

もうひとつのアプローチが「奮起させる」です。これは、相手が「よし!やろう!」と自ら決意することで、行動の変化を促すものです。具体的には、行動自体を「楽しいと感じる」「意義を感じる」、「誇りに思う」、「承認される」、そして「仲間意識を感じる」などです。例えば、所属しているサッカーチームの練習から帰ってくると、お母さんが「お帰り! 偉かったね。」と言いながら、満面の笑みで迎えてくれる。すると、子供は自然と好きなサッカーの練習に打ち込むようになる。こういったことが「奮起

させる」というものです。

 

「操る」ばかりの世の中

ところが日常行われているのは「操る」ばかりです。その理由は「操る」がもつ特性にあります。「操る」のは、とにかく手っ取り早いのです。相手の心の状態を考えなくても、地位や立場が上の人が、その位置づけの力をもって、圧力を加えれば、下の人は、すぐに示された行動をとらなければなりません。少なくとも表面的にはです。

指示した仕事をきちんとこなさなかったり、期待通りの行動を取らなかった部下に、「あれをやれ」、「これをやれ」と細かく注意するというは、当たり前のレベルですね。ある工場では、作業ミスにより良品として出荷できなかくなった商品を、その作業員に買い取らせ、かつ、ノーミス手当10,000円を支給しない、という方法で、然るべき行動を取らせていました。この工場の場合、仕組みが脆弱なところがあるように思えましたが、作業員を操作することで損害を減らそうとしていました。親子の関係でも同じです。「勉強しろ」や「宿題はやったのか」というのは日常ですし、ゲームばかりやっている子供には「ゲームを隠す」という罰を与えたり、「運動会がんばったらご褒美を買ってあげる」なんていうのも、「操る」アプローチです。
「操る」ことばかり行われるのは、早く結果が欲しいからだと思います。どうしたら、部下や子供を「奮起させる」ことができるのか、なかなか具体的に思い浮かびませんが、「操る」のは簡単です。「やれ!」という圧力をかければいいのですから。それに、満足できない目の前の光景に対して、「操る」ろうとする行動自体が、ある種、上司や親に一時的な気晴らしになるところもあるのでしょう。

 

もっと「奮起させよう」

確かに、その瞬間、「操る」というのは、手っ取り早いのですが、長い目でみると面倒が多いのです。「操る」方にも、「操られる」方にも、です。実は、「操る」のには、とても負担がかかります。なぜなら、都度、「操らなくてはならない」からです。「操る」場合、相手の心の状態は関係ありません。「四の五の言わずにやれ」ですから、「なぜこの行動をとるべきなのか」という理解ができていないので、行動を自ら省みて自分を情けなく思う、というような感情面の動きは、あまり期待できません。すると、同じようなダメな行動を繰り返し起こします。それを見て、上司や親がまた「操る」、この繰り返しです。
操られる方にも、残念なことがあります。外からの力により「操られた」場合、要求されたこと以上の行動は取りません。意味を理解していないから、求められたことに反応するだけなのです。そうすると、自ずと、行動の質も量も、最低限の水準でしか行われません。「操る」ことで、実現した行動は、動機も内容も、そして量も、著しく限定的なのです。
では、どうすれば「奮起させられる」のか。これは難しいですね。しかし、「マネジメントとは何か」という問いと、ものすごく親和性が高い論点だと思います。成果を上げ続けるには、「奮起させる」ことが不可欠ですので。今回はこのくらいで終わります。
私も含めてですが、相手とコミュニケーションするとき、「操る」ことばかりになっていないか、「操る」のが最適なのかを、ちょっと息をついて考えようではありませんか。

人を育てる

「管理職の役割とは何か」と問うたときに、よく出てくる答えの1つが、「人を育てる」です。感覚的ですが、頻出ワード第1位だと思います。「人を育てる」ということはどういうことなのか難しいと感じます。それは、「育てた」のか「育ったのか」わからないからです。人は経験を積み重ねると、それをうまく出来るようになります。スピードに差はありますが、その行動を理解し、慣れるからです。とくに子供の場合は、身体的な成長が伴うので、おのずとうまく出来るようになったりします。

 

「人を育てる」ことの結果はわからない

 

指導の賜物なのか、本人の努力によるものなのか、結果はまったく区別がつきません。ひとつの個体で2つのパターンを追跡調査し、比較検討することは絶対にできませんので、この区別は、はっきりしない。このようにはっきりしないなかで、管理職は「人を育てる」という役割を果たそうとしているのです。やはり難しいですね。
うがった見方をすると、調子のいい管理職は、成果をあげている部下を「育てた」と言い、結果が出ない部下を「本人の努力が足りない」などと言うことも出来てしまいます。それを証明することはできませんが、そうでないことも証明できません。

 

マネジメントは成果をあげるのが使命です。人の成長は、生み出す成果を大きくすることにつながりますので、長期的に成果をあげることを考えれば、「人を育てる」ことは、マネジメントの重要な活動の一つと言えるでしょう。結果として、「育った」のか「育てた」のかわからない。しかし、だからといって、管理職個人の感覚に任せておくというのは、マネジメントではありません。そこで、「人を育てる」とはどういうことなのかを、整理します。

 

「人を育てる」には、成果を上げる

 

企業の場合、「人を育てる」のは、成果を上げるひとつの手段ではありますが、目的ではありません。仮に、人々のスキルが上がったとしても、業績が上がらなければ企業の存在意義がありません。社会的な使命を果たすことができないのです。つまり「人を育てる」ことが成果に結びつかなければならないわけです。これが難しいところだと思います。研修を受けた場合、知識は増えたかもしれませんが、業績が上がるとは限らない。管理職が部下の不十分な行動を叱ったとしても、業績が上がるとは限らない。業績が上がらなければ、「人を育てた」とは言えません。
これは企業だけでなく他のことでも言えると思います。例えば、いつも同じ例えで申し訳ありませんが、野球の場合、指導の結果、バットを振るスピードが速くなったとしても試合でボールを遠くに飛ばせなければ意味がありません。また、新しい変化球を教そわったとしても、試合で打者を打ち取ることができなければダメなのです。成果が伴ってこそ「人を育てた」と言えるのです。これは、言い方変えると、「成果を上げられるようにしてやることが、人を育てたことになる」と言えるのではないでしょうか。

 

マネジメントすることが「人を育てる」

 

マネジメントの枠組みで考えると、「人を育てる」とは「成果を上げられるようにしてやること」に他なりませんから、「人を育てる」ために、何か特別なことをやるのではありません。営業部長であれば、部下である営業マンの売上目標を達成させてやる、ということです。つまり、「部下の目標を達成させる」というマネジャーの本分をやり遂げればよいのです。もちろん「マネジメント不在の現状」という記事で書いたように、単に目標を割り当てて、達成を部下に丸投げし、達成できなければ叱る、ということでは、仮に、一時的に目標を達成できたとしても、「人を育てた」ことにはなりません。

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マネジメントの枠組みでは、「成果を上げる」ようにしてやることが「人を育てる」ことです。マネジャーは、「指導する」とか「叱る」という個々の行為を実行しても、それは「人を育てた」ことにはなりません。もし、部下が目標を達成できていないなら、マネジャーは、その部下を育てられていないと考えるべきでしょう。成果を上げることに、もっと拘ろうではありませんか。

 

現状をどう捉えるか

「いま」をどう見るか、というお話です。

期待どおりの結果が出せない部下に対して、上司がきつく当たる場面をよく目の当たりにします。会議のように、大勢がいる場で、厳しい言葉で、行動だけでなく人格まで否定されているように思える光景をみることすらあります。「だから、何回言ってもわからないヤツだな」
「もっと考えろよ。考えればわかることだろうっ」
「あなたの代わりはいくらでもいるんだよ」
こんな発言も珍しくありません。

 

でも、成果が上がっていてもいなくても、人は自分の現状を肯定的に捉えていることが多いように思います。「それなりに精一杯やってきた」というような感覚です。まあ、そう思わないと、長い人生やっていけないのだと思います。ですから、上司から現状を否定されても、すんなりと受け入れることはあまりできません。否定された部下の方とも個別にミーティングをすることがありますが、ほとんど例外なく、自分の現状の「まずさ」よりも、厳しい言葉をぶつけてきた上司の問題点を口にします。ミーティングでは、「まあまあ、それより矢印を自分に向けましょう」と自責の姿勢を促しますが、収まることはほとんどありません。

こういった態度はダメだという見方もあると思いますが、人が協力して成果を上げるということを考えると、そうも言っていられません。

 

これから書くことは、ある経営者に教わったことです。素敵な見方ですので、改めて書いてみます。こんな感じであったと記憶しています。

「人の現状は絶対に否定してはいけないんです。それは部下であっても、生徒であっても、子供あっても同じ。その人が今までやってきた行動には、それなりの考えや価値観がある。期待どおりではないかもしれませんが、それでも、その行動には理があるんです。結果が悪くても、考えや価値観を変えようなどとは思わない。変えたくないんじゃなくて、そういう発想にならないんです。だから否定しても、行動が変わることがない。もし変わったとしても、それは表面的なものです。その方が責められないからです。そうではなくて、良くない結果を『良かったね』と言ってあげるんですよ。良くないことがわかったんですから。そこを変えればいいんだ、一緒に変えよう、とね。現状のままではダメですが、現状をダメと言ってはいけないんです」

 

これはとても考えさせられる言葉でした。かつて働いていたコンサルティング会社では、「問題点を見つけても得意になるな。深い悲しみをもって、クライアントの問題点を見つめろ」という教えがありましたが、これらは同じ思想ではないかと思わされました。

これ以来、現状をどうみるかにについて、ずっと考えてきました。マネジメントという視点から、現時点では次のように考えています。

 

あるべき姿を描くということは、つねに現状よりも高い水準を目指している、ということになります。つまり、現状は常に「十分ではない」わけです。マネジメントに携わる者は、この状態に慣れなければなりません。現状のままではダメというのが常なのです。そうすると、現状の見方が変わります。現状を否定しても仕方ないということです。意味がない。だって、常に「足りていない状態」ですから。たとえ満足できない部下の行動を見ても、否定するのはやめましょう。むしろ、「良かったね」と本気で言ってあげることが、部下が「矢印を自分に向けるスイッチ」になるのだと思います。意識を集中させるべきは、あるべき姿と現状のギャップの方です。部下の現状を否定することで、意識を現状に留めてはいけないのだと思います。