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マネジメントの力で良くしてみよう

課題とは何だ

課題を設定する。成果をあげる上では、とても大切なことですので、改めて考えてみます。

良い結果を出そうとしたり、問題を解決しようとしたりするとき、「課題」を設定することがあります。管理職になりますと、よく「課題は何か」と考えさせられるのではないでしょうか。また、スポーツ選手が試合後のインタビューで、「今日の試合でまた課題が見つかりました」と答えたりもしていますよね。この場合の「課題」とは何なのか、これが今回のお題です。

 

「課題」とはクリアすべきお題

 

課題とは、クリアすべきお題、テーマです。

それにしても、課題という言葉は非常にわかりにくいですね。職場のような、大人が集う場所では、言葉の意味は当然知っているものとして、会話が進みますよね。いちいち一般的な言葉の意味は確認しません。(確認していたら、恐ろしいことになります。結構テキトーな理解が明るみになって、「内容」の議論になりません)

そんななかで「課題」という言葉は、抽象的な概念なので、その人によって微妙に意味が違います。何かもっともらしく聞こえる言葉なのに、ちゃんと説明できない。また、説明されたこともありません。「さっきから『課題』とおっしゃっていますが、どういう意味で使っていますか?」などと聞いたら相手が困ってしまうでしょう。

よくわからないので、広辞苑で調べてみました。すると、次のような説明がなされています。

【課題】

題、また問題を課すること。
また、課せられた題・問題。

これを読んでもよくわからないのは、私だけでしょうか。広辞苑を読んでもわからないんだから、自分で意味を定義しちゃいます。それが「課題とは、クリアすべきお題、テーマ」です。これでも、よくわからないかもしれません。本当に説明が難しいですね。広辞苑が「わかりにくい」解説をするのも理解できます。
しかし、マネジメントに限定した場合、課題はもう少し意味づけしやすくなります。マネジメントにおける課題とは、次のように定義できます。

 

あるべき姿と現状とのギャップを埋めること

これがマネジメントにおける「課題」です。成果を出すのがマネジメントの使命ですので、マネジメントがクリアすべきテーマとは、ギャップを埋めて、あるべき姿を実現することです。

 

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課題は見つけるものではない

課題は、「あるべき姿と現状とのギャップを埋めること」です。この定義からもわかるように、課題とは、直接、「課題らしきもの」を見つけるのではありません。何か、足りないものや強化したいことを見つけても、「課題を認識したことにはなりません」なぜなら、それが「クリアすべき」お題とは言えないからです。

課題をあきらかにするためには、あるべき姿を明確に描き、それと対応する事実を収集して現状を捉える。この両者のギャップを認識することです。この場合、課題は、あるべき姿と直接結びついていますから、「クリアすべきお題」といえるわけです。

 

課題から「やるべきこと」を導き出す

課題を認識しても、もちろん、それで終わりではありません。課題を認識するのは、その課題をクリアするために必要な「やるべきこと」を導き出すためです。こう考えると、課題とは、「『あるべき姿』というゴールと、『やるべきこと』という手段を適切に結びつけるもの」と言うこともできます。
もし、課題を認識しないで、あるべき姿を実現する手段を導き出そうとすると、それが本当に「やるべきこと」なのか、あるべき姿を実現するのに十分な行動か、というのがよくわかりません。課題を認識しなければ、方向性と十分性がわからないまま、無駄な努力を続けてしまうおそれがあるのです。一所懸命やっているのに成果が出ない、そうなると、目標が高すぎるとか、もう他にやれることはないというようなマインドになってしまうかもしれません。
実際、多くの会社で、課題が認識されていないのに、いろいろな活動に取組んでいます。本気で成果を上げようとする場合、「課題を設定する」というプロセスは、どうしても省略することができません。

課題とは、あるべき姿と現状とのギャップを埋めることであり、適切な「やるべきこと」が導き出される起点になるもの、といえるでしょう。

 

 

論理的に考える

「論理的に考える」社会人になるとよく求められます。でも、どうして論理的に考えることが必要なのでしょうか。今日は、論理的に考えるとは、どういうことなのか、どのように役に立つのか、ということをまとめます。

【脱線】必要な問い

いきなり脱線しますが、何よりも「やり方」を知りたい、という衝動が先にくることがあります。例えば、「どうすれば論理的に考えられるのか」というような場合です。上司から、「論理的に考えろ」などと言われたその日に、本屋に寄って、論理的思考に関するノウハウ本を買ったりする。こういう傾向には、「待った」をかけたいですね。「やり方」の前に、まず、「論理的に考えるとはどういうことなのか」という問いが先だと思います。これから何を学ぼうとしているのかわからないのに、「やり方」を知ろうとするのは、上達しないと思います。少なくとも、「使いこなす」までにはならない。本質を知ることができないと思うからです。「何を習得しようとしているのか」、「なぜそうするのか」、今日、書こうと思ったのは、こういう問いを、今までしてこなかったからのような気がします。

「論理的に考える」とは、どういうことか

この問いについて、はっきり答えられますか? 難しいですね。せっかくですから、「論理的に考える」とは何かについて、じっくり考えながら書いてみます。
「論理的に考える」というと、ちょっと知的な感じがします。話の筋道がしっかり示されていて、すっと入ってくる。事実をベースに根拠や理由があって、そこから導かれる結論に納得できるものがある。すべてが関連していて、わかりやすい、という感じでしょうか。個人的な考え方ですが、「一度、自分で考えた人は、調べたり、聞いたする権利が与えれる」と思っていますので、ググってみます。

「論理的思考」とは、人間の思考様式の一つ。「行動的直観的思考」に対置される


物事を筋道立てて、論理的に考える能力のこと


一貫して筋が通っている考え方、あるいは説明の仕方のこと

 

「論理的に考える」の反対は、直観ですね。「思いつき」とか「感情的」とか「独断」ということも、「論理的に考える」ことの反対の概念でしょう。反対の概念を知ると、その言葉の意味がわかりやすくなります。つまり、「論理的に考える」とは、自分勝手な考えや一時的な感情で頭に浮かんだことではなく、すべてのものにあてはまる真理にもとづいて考える、価値観や文化の違いを超えて、広く認められたフォーマットで考える、ということなのでしょう。社会に所属する者の作法といえるかもしれません。

 

なぜ論理的に考える必要があるのか?

「論理的に考える」という不自然な行為は、人間が生み出したものです。そうする必要があったからでしょう。思いつきや感覚で話すことができない人はいないと思います。人間にとって、これが本能的で自然な行為だからです。日常生活であれば、前提条件を明らかにし、事実を根拠に、論理的に考えて結論を導き出す、なんてしなくても、何とかなります。しかし、人は、問題を解決してきました。つまり、想いを描き、なんとかそれを実現させる、ということを繰り返し、高度なことができるようになってきました。このとき、思いつき、感覚、直観や独断、これらでは問題を解決できなかったのだと思います。事実に基いているわけでもなく、根拠や理由がはっきりしているわけでもないから、うまくいかないことが多かったのでしょう。「論理的に考える」のは、問題解決に不可欠なのです。

マネジメントと論理的な思考

マネジメントとは成果を上げることです。言い換えれば、あるべき姿と現状のギャップを埋める、そして、あるべき姿を引き上げ、つくりだしたギャップをさらに埋める、これを繰り返すわけです。ギャップという「足りないもの」がわかったとしても、それを埋めるのに、感覚や思いつきで導き出された行動では、どうもうまくいきません。ひとりよがりであったり、デタラメであったりするので、成果を上げる可能性が低くく、継続性は期待できないのです。
また、何も疑問を持たずに、これまでやってきたことを続けても、うまく行きません。行動が変わらなければ、結果も変わらないからです。「論理的に考える」ことで、意味のない現状維持に疑問を抱き、「これまでの自分」にとらわれずに考えることができるようになります。「論理的に考える」ことは、マネジメントに不可欠なのです。
ただし、直観や思いつきがダメだという訳ではありません。経験からくる直観は、ときに最も効果的な解決策を導き出してくれることもあります。大切なのは、価値観や経験という個人的な感覚から導き出される思考と、真理に基づく「論理的な思考」の両方を使い分けることだと思います。

自由にさせない

人の行動に影響を与えるには、「操る」のと「奮起させる」の2つがある、ということについて、前回書きました。

 

kakemana.hatenablog.com

この記事のなかでは、手っ取り早いが故に「操る」アプローチばかりだ、ということを書きました。しかし、「操る」のなかでも、とても大切なのに、実行されていないものがあります。それが、今日の「自由にさせない」です。

 

最近は、新入社員のうちからモノを言う人が増えているようです。「僕の自由にやらせてください」とか「私のやり方で」ということを、平気で上司に言ってくるそうです。上司である管理職も、「そうか。じゃ、やってみろ」と簡単に引き下がってしまいます。解釈によっては、「積極的」と捉えることもできますので、悪いことではないでしょう。しかし、この自由を許容しすぎてはいけません。


「人を育てる」という記事のなかで、成果を上げるプロセスが人を育てるのだと書きました。

kakemana.hatenablog.com

その前提には、何としても成果を上げようと行動することが不可欠です。「何としても」です。もし、好きなことや得意なことをだけを行い、慣れ親しんだやり方で取り組んだとしても、成果は上がらないでしょう。それで実現できるような成果であれば、もともと十分な難易度ではなかったのです。成り行きで、できてしまうレベルだったのです。人は、苦手なことや好きじゃないことは避けて通ろうとします。完全に逃げなくても、十分な時間や量を割かないようする傾向があります。

 

例えば、営業マンであれば、苦手なお客さんのところに訪問する回数が極端に減るなんていうのは日常茶飯事で、まったく訪問しない不届者も珍しくありません。受験勉強でも、合格するためには、穴を作ってはいけないので、どうしても5教科やらなければならないのに、苦手な数学はどうしても後回しになる。部下や子供に自由にやらせておいて、事実でもって確認していると、こういった傾向はすぐに見て取れます。

 

人を育てるためには、自由にやらせてはいけないのです。成果を上げようとする行動が、人を育てます。そして、成果を上げるためには、必要なことは何でもやらなければならない。必要なことのなかには、必ず好きじゃないことや苦手なことが存在しています。好きじゃないことや苦手なことを避けていると、これが弱さとなって現れます。成果を上げたくとも、弱さが壁になって停滞してしまうのです。ですから、本人がその行動を好きか嫌いか、苦手かどうかにかかわらず、上司や親は、必要なことをやらせなければならないのです。

 

これに対して、必ず、「部下や子供がかわいそう」と言う人が現れます。そう感じる気持ちは理解できなくはありません。私にも覚えがあります。息子が小学3年生のとき、「近くの公園でバッティング練習がしたい」と息子が言うので、投げてあげることにしました。すると、息子の打ち方を見て驚きました。遠くに飛ばすことを考えるあまり、極端に投手側の肩を開いて、前に突っ込みながら打っていました。これは、野球では、やってはいけない典型的な崩れ方なのです。そこで、その日は、残りの400球をすべてショート・ゴロを打つように左打ちの息子に指示しました。もちろん矯正するためにです。息子には理由を告げていなかったので、泣きながら打っていました。息子のためにやらせているという信念はありましたが、そのときはさすがに息子の心情が気になったものです。しかし、これは、かわいそうではないのです。

 

自由にさせないことは、見方を変えると、いつも上司や親が見ている、関心を寄せている、ということです。最初は、嫌々やっていても、関心をもって関わっていると、それが、必ず苦痛でなくなります。そして、良い結果が出たりすると、嬉しそうに報告してきます。
かつてのプロジェクトでも、「あそこには案件なんて、ありませんよ。私はこの地盤をよく知っているんですから」と言って、新規営業を避けていたベテラン営業マンが、その新規先から契約を取った日に、上司と日次ミーティングで嬉しそうに聞いてもいない話を延々としていた、なんてことがありました。
ちなみに、我が不肖の息子も、翌日には「パパがあんなにやらせた理由がわかったよ」と笑顔で言い、今では、バッティングが崩れたと判断すると、逆方向に打つ矯正法を、自ら繰り返し練習しています。

人を育てることに本気で取組むなら、自由にさせてはなりません。苦手なこと、好きでないことにも、果敢に、粘り強く取組むことが不可欠です。「自主性」を重んじる傾向が強くありますが、「自由にさせる」ことにならないように注意しなければなりません。